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絵がきや晴加のプロフィール

1990年 静岡県牧之原市に産まれる

私は、父・母・弟・妹・祖父・祖母・曾祖母のいる森家の第一子として、生を受けました。

私の故郷である静岡県牧之原市は、お茶の産地でもあります。静岡といえばお茶♪

毎年、新茶の時期になると辺り一面が青々とした緑で埋め尽くされる景色は、毎年観ても言葉を失うほど美しくて本当に見事です。皆さんにも是日、一度はみて頂きたい、私の大好きな地元の景色です。

祖父が立ち上げたお茶工場を、現在は父が継ぎ、今は弟も一緒に経営しています。

父・祖父の職業柄のせいか、私にとってお茶が、とても身近なものとして育ちました。また父が帰って来たときには、毎日ほのかに香る茶葉の香りを感じていたことは、今となっては良い思い出です。

私は、緑茶が大好きで熱い真夏は冷茶。寒い冬には、あたたかいお茶。お酒を飲むときは、緑茶割をして飲むのが好きです。笑(静岡割りとも言います)

他にも、実家で一緒に住んでいる祖母は、現在も一年中着物を普段着として着ています。着物をきているお陰で、80歳を過ぎた今でも背筋はピン!伸び、毎日元気に過ごしています。

着物や和柄が好きになった私の原点は、大好きなおばあちゃんの影響かもしれません。そして、我が家ではテレビよりも家族で会話をして、夕御飯を楽しむことが日課の森家です。

2005年 静岡県榛原郡榛原中学校 卒業

中学生生活で印象的なのは、やはり部活動をした日々です。私は、女子バスケットボール部に入部しました。それまでは、習字・ピアノ・水泳と個人で行うをやっていた私にとって、集団競技は初めての試みでした。

バスケ部に入部した理由は、弟が先に小学生のミニバスケットをやっていたことと、バスケは室内だから日焼けもしないし(笑)、身体動かすのはまぁ好きだし~、という正直軽い気持ちで入部しました。

入部した1年生の頃のチームは、地区大会で一勝もしたことのないチームでした。その中でも、同級生や先輩がとっても素敵な方ばかりで、辛い練習も続けることができました。

私も含めてですが、経験者がほとんどいない初心者チームからのスタート。まずは地区大会1勝を目標に、顧問の大石先生とチームメイトと共に、毎日倒れるほどの練習をしました。

日々を積み重ねて迎えた、3年生夏最後の試合。私は選抜選手ではなかったのですが、地区大会決勝戦。優勝が決まる大事な試合の最終クウォーター残り3分。相手とは1点差で追い掛けている状態で、まさかの選手交代により出場。

「ここで!?? まさか!!!!」と思いました。

コートに立つと動きの何もかもが早くて、正直ついていくのに必死になって戦う中、見方からパスかきて、前を見ると、たまたま私の前があいていたので、思いきって打った3Pシュート。

手から離れた時、スローモーションのようになり、周りの音が消えました。

 

「入った・・・・」

 

逆転!!!!!

そこから流れが一気に変わり、念願の勝利。次の決勝戦も勝ち、中学校創立以来の地区大会優勝でした。

泣いて喜びました。こんなことあるんだ・・・って思った出来ごとでした。

大会まで3Pを打てる時が来たら「必ず決めよう」と、毎日コツコツ練習していた日々はやっぱり無駄じゃなかったって、思ったそんな中学生時代の印象深い思い出です。

2008年 常葉学園菊川高等学校 卒業

進学する高校を中学生の時に決める時、「知り合いがだれもいないような 高校へ行きたい!」と、まず両親に伝えました。

それは、とにかく “初めまして” や新たな人との出逢いが私は、好きだったからです。新しい人と出逢い話をするたび、私の中の世界が一回りも、ふた回りも広がっていくことが分かったからです。なので、地元の高校へ進学する選択肢はありませんでした。

もう一つの理由として、「甲子園に行って母校を応援したい!」という夢があったのです。

その訳は、私の祖父は学生のころずっと野球をやっていて、テレビは決まってプロ野球か甲子園。私も一緒になってみては、毎回興奮しながら応援していました。

次第に、プロとは明らかに違う甲子園の雰囲気をテレビでみるたび、「甲子園でいつか応援をしたい!」「母校の応援なら尚更最高!!!」という気持ちが強まっていったからです。

他には、授業のカリキュラムの中に保育のことを学べる授業があったことなどから、常葉菊川高校への進学を決めました。

想い出いっぱい膨らめて過ごした高校生活。

やはり印象的だったことは、私が3年生の時母校が甲子園で優勝したことです!!!

もちろん全試合、甲子園へ行って応援をしました。一勝忘れることのない最高な想い出です。

こんなことって本当にあるんだ・・・パート2な出来事でした。このような出来事がよく起きているので、

願ったら叶うんだ!っていつも本気で思っていました。

2012  大学卒業後、幼い頃からの夢だった保育士となる

小学低学年の頃から夢だった、保育士になりたいという夢。

なぜ保育士になろうと思ったかというと、子どもたちが創る世界が好きだったからです。

上下がない関係。人のことを自分のことのように想う心。自分の気持ちを大切にするところ。はっきりと自分の意思を主張する正直なところ・・・などです。

私は、人としての在り方を、よく年下の子から教えてもらっていました。それと同時に、年齢が自分よりも上の人が言うこと全てが“正しい訳ではない”ということも、心と共に経験しました。

色々な体験をする中で、最終的に大切だと感じたことは、自分の行動は自分が決めることだということです。

私が保育士になったら、とにかく子どもたちの中から溢れてくるものを、まずは自分自身が知り「やってみたい!」と思ったことは、その子が納得いくまで伴走しようと思いました。

生きているって本当に素晴らしいし、楽しいことだと、思っていたので未来は明るい♪というイメージを、子どもたちに大人として伝えたかったからです。

 

2013  近所のお菓子屋さんで目にしたパステル画をみて、衝撃を受ける

子どもたちの笑顔と日々の成長が嬉しくて、平日仕事が終わってからも、休みの日もずっと子どもたちのことを考えていました。

しかし、日々必要な保育内容を準備する時間と、休むことのバランスが上手く取れず、寝る間を惜しんで保育のことを行いました。私は、完璧主義な性格が故 当時の私は“休む“ ことをしなかった為に体調も崩しがちになっていました。

この頃から楽しかった半面、心に何かモヤモヤしたものが膨れていくのを感じるようになりました。

保育の仕事以外に心躍る時間もありました。それは仕事帰りに寄っていた、自宅近所にあるお菓子屋さんへ立ち寄ることでした。ドアを開けるなり広がるお菓子の香ばしい香り。可愛らしいインテリアや小物♪

いつものように型抜きクッキーを買おうと思った時、たまたま目に留まったのが、店内に飾られていた「パステル」で描かれた絵でした。絵をみた瞬間、本当に心が緩みほっとしたのです。優しい色合いに一気に心がトキめきました。

考える余地もなく「やってみたい!」と思い、後に私にパステルの基礎を教えて下さる先生と今後出逢うきっけの出来事となります。

保育士として働く私の中に「パステル」という新たな楽しみが出来ました。

上手く言葉にはならなかった気持ちを、パステルを通して、何枚もの絵に込めて表現したりしていました。

そんな日々が続き、気がつけば季節は学期末の3月。

子どもたちに「ひとつ大きなクラスになったら 何をしたい?」「大きくなったら 何をしたい?」という質問をしました。子どもたちに質問をすればするほど、私も一緒に心の中で「晴加は何がしたい?」と聞くと、

「“パステル”を使って、新たな世界で自分を表現してみたい♪」という答えが、返ってきたのです。

「まさか?え??今から??」私自身が一番驚いた回答でした。

2014  人生初の沖縄一人旅で、後に夫となる龍一との出逢いをきっかけに、パステル画での表現を始める

保育士をやりながら常に100%で駆け抜けていたせいか、途中身体がついてこなくなってしまい、悩んだ結果、現場を離れる決意をし、3月に退職をしました。

辞めた直後は、身体を動かせる状態ではなくて、ずっと横になって寝ていました。小学生の頃からの夢を叶えたものの、続けられなかった自分を当時相当責めました。

上手くバランスととれなかった自分の未熟さに、本当に情けないと思いました。

私には、保育士向いていなかったんだろうか。

どうして続けられなかったのだろう。

大学にまで出させてもらったのに、役立たずだな・・・

今思うとこの時、今まで見たことのない私の心の闇の部分をみた気がします。

段々自分と話をするのさえ辛くなってくる中でも、不思議とパステルで絵は描きたいと思いました。

絵を描きながら、心の整理をしたり、感情が溢れて、泣くことも何度もありました。絵を描いている時は、不思議と落ち着いたのです。そして、生きている感じがしたから、楽しかったのです。

この気持ちのまま、家族に絵を描きプレゼントしたところ、とても喜んでくれました。

家族の嬉しそうな笑顔をみた時、

「今の私にも、人に笑顔を届けられるんだ。」

そう思ったとき、もう自分を責めることをやめよう、と思い何ヵ月か振りに自分に優しい言葉を掛けることだ出来ました。心に光が差し、意識が外の世界へ向き始めた瞬間でした。

数日経った時のこと、何となくの感覚で少し遠いところに行ってみたい、と思ったんです。

「家は、静岡空港が近いからな~。福岡行きもでているな。ん~もう少し遠くがいいな。あ!沖縄へ行ってみよう♪」

リュックに荷物をいれ、2週間何も予定を立てずに、とりあえず沖縄へ人生初めての一人旅に出かけました。

1日目、沖縄に着き何気なく国際通りを歩いてみました。

ここで、後に結婚する、龍一さんと知り合うこととなるのです。人生って本当に不思議ですね。

2015 静岡県にて初個展

現場を離れた半年後、心に随分ゆとりができ、「やっぱり私は子どもたち、人がすきだな。人の笑顔、自身の笑顔が好きだな。」と再認識をし、もう一度保育現場に戻ってみたいと思い、面接を受けました。

結果は無事合格。

素晴らしい環境とあたたかい先生方に囲まれながら、保育士として日々を過ごしました。

充実幸せな日々を送っていた矢先、パステルを私に教えて下さった先生からのお誘いで、「展示会をやってみたらと?」いうお誘いを受けました。

「はい!是非やりたいです。」

口が勝手に言っていました。笑

いつもそうなのです。本当に心の底からワクワクすることは、口が勝手に話をしています。返事をした後に、

「さて、どうしよう・・・」

と毎回考えます。

人生初の個展。本当に素晴らしい経験をさせて頂きました。やはりパステルが好きだな、と大きく心が動いた出来ごとでした。

20164 沖縄へ移住、11月入籍

ずっと心の中に「パステルで更に自分を思い切り表現したい!」という気持ちがありながら、

「でも・・・大丈夫?」「簡単にいくわけがないよね」「何からやるの?」ずっとグルグル考えていた矢先、突然起きた2016年熊本の震災。

「もし、ここで私の命が終わるとしたら、パステルで表現するという新たな道を選択しなかったことは絶対に後悔する!そして、龍一さんと一緒に暮らすために沖縄にいかなかった事も後悔する。」と内側から声がし、

それからは突き動かされるように、新たな旅立ちの準備を始め、2016年4月沖縄へ移住することにしました。

人生って本当に何が起こるか分からないです。まさか!!の出来ごとの連続でした。

20177 結婚を機に幼少期から興味があった家紋と、大好きな日本文化、パステルアート、という点が全て繋がり「結紋〜yuimon〜」へたどり着く

(別ページに詳しく記入しています)

2017年9月  楽ロビkitchen.にて人生第2回目の展示を沖縄で行う

沖縄へきて、楽ロビkitchen.との出逢いは私の人生を更に豊かにしてくれることとなりました。

食にほとんど関心のなかった私に「食」の大切さ、「食べるものが、心と身体をつくること」という生きていくうえでの基礎をを教えて頂きました。

私にとって実家のような存在。とても大好きで大切なところです。

2018 7 結紋〜yuimon〜を発表

・・・以後、絵がきや晴加の活動はこれからもつづいていきます!

絵がきや晴加へ作品ご依頼やお問い合わせは

 

私、絵がきや晴加は、お客様ひとりひとりの「大切なあの人への想い」を

作品にのせて代弁するために、心晴絵・結紋・家紋などの作品を

完全フルオーダーメイドにて誠心誠意作らせていただいております。

 

ご注文の際には私、晴加自身がしっかりと打ち合わせをさせていただき、

お客様の愛と想いを最大限に反映させた「世界でたったひとつしかない作品」に

仕上げたいと常に感じておりますので

ご用命の際は↓より該当作品をご注文いただけますと嬉しいです^^

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